さしものコロナ禍が小康状態の間に(南アフリカでo(オミクロン)株が出現し、新たな脅威となってきていますが)、これまでコロナ対策のために十分取り組めなかった諸課題について考えています。その一つが、大学における英語教育のゴールはどのように設定すべきか、本学の英語教育は何を目指すべきか、またそのための教員組織は如何にあるべきかという課題です。
1)まず、私自身の体験から始めます。私は1981年秋にニューヨークに留学する機会がありましたが、隣の研究室の米国人大学院生から「おまえの頭はどうなってるんだ?」と、不思議がられていました。当時、自分の研究領域については、英語の論文をそれなりに読み、英語で論文を書くことも始めていました。しかし、日常会話はほとんど聞き取れず、何も言うことができませんでした。ラボでのプレゼンは何とかこなしても、月曜日の朝、コーヒーカップを片手に、週末にみた映画はどうだった、こうだったと話されても、ほとんど理解できないのです。当時は一人一人が携帯を持つなどという時代ではありませんでしたから、ラボにボス宛の電話がかかってくることがありました。うっかり出てしまうと、相手にすぐ切られてしまいます。ボスに正確に伝言できないとわかっているようでした。
大学院生の彼には、このような状態が信じられなかったのでしょう。言葉の基本は「読む」と「書く」の前に「聞く」と「話す」ですから、英語で「聞く」と「話す」ができないのに、何故「読む」と「書く」はそれなりにこなすのか「とても不思議だ、あり得ない」というのです。聞き取れない時には、「聞き取れないので書いて欲しい」と頼めば、相手の言いたいことは何とか理解できました。英語で筆談をしていたようなものです。
英語学習にはさまざまなゴールが想定できます。本学の学生・院生には、日常会話ができること、例えば、日本語字幕を見なくても映画の台詞が理解できることが、彼らがグローバル化を実現するためのゴールなのでしょうか。それとも、それぞれの専門分野で、論理的なやり取りができることがゴールなのでしょうか。個々の学生のニーズにあった様々なゴールを設定する必要があることは間違いないと思います。
2)私の同級生であった中田力先生は3年前に亡くなってしまいましたが、functional MRI研究のパイオニアで、世界的にも最先端の業績を挙げていました。自分で研究して、自分なりにわかってしまうと論文まで書かないのが彼の唯一の欠点でしたので、彼から研究内容を説明してもらった時は納得したのですが、ここでも彼の原著論文がみつかりません。引用できないので、研究手法の詳細はわからないのですが、彼はバイリンガルの脳の働きを、脳機能画像を用いて研究していたのです。
日本人が第二外国語として英語を修得した場合、英語を使っている時の脳の働き方はネイティブである日本語のままなのか、それとも英語がネイティブである人たちと同じ働き方になっているのか、どちらでしょうか。それとも全く新しい働き方になっているのでしょうか。彼は日本での病院研修に早々に見切りをつけて、カリフォルニアに行ってしまい、Davis校の神経学教授になったのですが、カリフォルニアには英語がネイティブで、後から日本語を修得したバイリンガルの人たちがいるので、日本人と丁度裏返しの解析を行うことができました。彼らが日本語を使っている時の脳の働き方はネイティブの英語型か、それとも日本人の働き方により近いか、どちらだったでしょうか。
中田教授の結論は日米どちらも同じでした。後から修得した言語を使っている時の脳の働き方は、それぞれの母国語のパターンと同じだったというのです。日本人が流暢に英語を話している時でも、脳の働き方は母国語である日本語と同じだという研究結果からわかることは、言語ではネイティブな言語の基盤が重要だということです。日本人は日本人に生まれた宿命として、ネイティブである日本語をまずロジカルに使えねばならないのです。日本語のロジックがあやふやなままでは、英語を勉強しても英語でロジカルに考えられるようにはならないのです。日本語のロジックを鍛えるべき小学校中学年で英語を始めると、どういうことになるのでしょう。
3)文部科学省の「英語教育の在り方に関する有識者会議」は平成26年に「今後の英語教育の改善・充実方策について~グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言~」を公表しています。小学校中学年から英語教育を開始するのですが、「英語を使って何ができるようになるか」という観点から一貫した教育目標(4技能に係る具体的な指標の形式の目標を含む)を示すことが求められ、改革4「教科書・教材の充実」には、「主たる教材である教科書を通じて、説明・発表・討論等の言語活動により、思考力・判断力・表現力等が一層育成されるよう、次期学習指導要領改訂においてそのような趣旨を徹底するとともに、教科用図書検定基準の見直しに取り組む。」という記述があります。
英語による思考力、判断力が表現力と並列で取り上げられているのですが、上記の通り、母国語である日本語による思考力・判断力をまず修得しなければならないのです。日本語のロジックも英語のロジックも、同時に修得できると文科省は考えているのかもしれませんが、中田先生の研究は「それは難しい」と指摘しているのです。早くから英語を始めることは、日本語によるロジックの形成に影響しないのでしょうか。
4)OECDが3年毎に公表している国際学修到達度調査(Programme for International Student Assessment:PISA)をご存じでしょうか。数学的リテラシー・科学的リテラシー・読解力という3つの指標について、義務教育終了の15歳を対象に、国際比較を行ったデータです。2018年には世界79地域から約60万人が参加したとされています。日本人は、数学的・科学的リテラシーでは世界トップレベルでしたが、読解力は2015年の8位から3年後の2018年には15位まで低下したことが話題になりました。
ここでいう読解力とは、古典や現代文の意味を正しく読み取れるという意味での読解力ではありません。OECDは「テキストを理解し、利用し、評価し、熟考し、取り組む力」と定義しています。2018年の調査は、パソコンを利用した調査に変化しており、教科書から情報を探し出すことができるか、教科書の信憑性を評価できるか、さらに、ICTを活用できるかどうかが問われています。わが国はこうしたICT教育が立ち遅れていますから、ゲームは得意でもパソコンは使いこなせず、PISAの順位も低下しているのでしょう。さらに言えば、ICT教育の遅れだけではなく、教科書を批判的に読むことができない、加えて伝統的な国語教育における読解力も低下している15歳が増えているのではないかと心配になります。
先ほど、第二外国語は母国語をベースとしているという中田先生の研究結果を紹介しました。繰り返しになりますが、ロジカルな英語を話すためには、まず日本語をロジカルに使えなければならないのです。英語で論文を書く時を思い出していただければ、日本人は日本語で考えながら、英作文を続けていることになります。英語でロジカルに考えているわけではありません。
日本語は構造上、英語から最も遠い言語であるというデータもありますので、日本人が英語を修得するハードルは非常に高いのですが、幼児教育や小学校教育から英語を取り入れることが必要なのか、英語はどの段階で学修するのが最も効果的なのか、日本語の修得の度合を計りながら取り組むべきではないのか、バイリンガルの脳科学研究は多くの示唆を与えてくれます。
5)では、本学における英語教育のゴールはどのように設定すべきでしょうか。私は、日本語がロジカルでなくて、第二外国語(英語)がロジカルになることはないと考えています。大学生の英語教育がどうあるべきかの前に、まず日本語をロジカルに読み、書くことが不十分なのであれば、大学でこれを改めてトレーニングする必要があります。
日常会話は、場面に慣れればできるようになるでしょう。オンデマンドの教材はネット上にあふれていますから、こうした教材に常時触れて学修を続ければ(英語を学び続ける日本人の割合は1割以下という数字がありますが)、字幕を見ずに映画の台詞を聞き取ることもできるようになるかもしません。しかし、日本語がロジカルに扱えなくては、ロジカルな英語は使えないのです。
昨年度の卒業式で、式辞としてお話したことを記憶しておられる方はないと思いますが、「祖国とは国語」というお茶の水女子大学の藤原正彦教授のエッセイを引用し、優れたQOLサポーターとして活躍するためには、日本語の語彙を増やすことが大切だというお話をしました。この想いは今も変わりません。
以上のようなことを念頭に置いて、これから本学における英語教育のあるべき姿を考えながら、英語教育に携わる先生方と新たな英語教育の組織を作っていかねばなりません。ぜひ、皆さんからご意見をいただきたいと思います。