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2021.03.26

学長室から~第4号~「プロフェッショナルとは」

 本学は、保健・医療・福祉・スポーツの分野に特化して、多職種の専門職と連携し、地域のクライアントのQOL向上を支援する「優れたQOLサポーター」を育成することを建学の精神として掲げています。「優れたQOLサポーター」は当然、その道の専門職(プロフェッショナル:以下プロ)なのですが、それではどういう人が、世の中からプロと認められるのでしょう。

 私が医学生を相手に、ノーマライゼーションについてのゼミを始めた1990年代初め頃の定義では、プロたる要件の第一は、その分野に関する専門的な知識を持っていること、第二は、その専門知識を駆使して、一般の人にはなし得ない技量を発揮できることでした。大切なのは、それでは専門的な知識と技量を備えたらプロと言えるかです。ゴルゴ13はプロか、ブラックジャックはプロなのか、と医学生には問い続けてきました。

 言うまでもなく、第一、第二の要件を満たしただけでは、プロとしては不十分で、第三の要件が必要とされます。それは、その集団が代々受け継いできた価値観、使命感(ここでは使命観と書きます)、倫理観などを身につけていることです。私は「矜持」という言葉が好きで、これらを「矜持」と言い換え、プロたるためには「矜持を持たねばならない」と言い続けてきました。それでは保健・医療・福祉・スポーツの分野でプロとなるためには、どのような矜持が必要でしょう。

 

 医師の領域で考えてみますと、古くは「Hippocratesの誓い」がありました。米国の医科大学では、現在も卒業式でこれを取り上げる大学があるようですが、流石に紀元前400年頃のギリシアのものを、そのまま現代に持ってくるのは無理があります。一方、看護師には、米国DetroitにあったHarper病院附属看護学校の委員会が、医師の「Hippocratesの誓い」に倣い、「看護師の誓い」として1893年に作成した「Nightingale誓詞」があります。戴帽式の際にこれを暗唱するという習慣は、わが国を含め世界中の看護学校に瞬く間に広まりました。看護師を志す学生にとって、この誓詞にこめられた「Nightingale精神」を自らのものとすることが最も大切であるのは、看護師がキャップを被らなくなり、「戴帽式」がなくなってしまった今も変わらないでしょう。

 かつて、西洋医学を学び始めた日本人医師には、緒方洪庵先生が適塾に掲げた「扶氏医戒之略」がありました。扶氏とは、当時、西洋医学の最高峰の一つであったベルリン大学の内科学教授Christoph Wilhelm Hufelandのことです。彼は亡くなる直前の1836年にその集大成として「Enchiridion Medicum(医学大全)」を書きました。当時の最高権威の著作はすぐにオランダ語、英語などに翻訳されて欧州に広まりましたが、そのオランダ語訳がはるばる極東の日本まで伝わってきたのです。日本人のために西洋医学の教科書を書こうとしていた洪庵先生は、この全訳(「扶氏経験遺訓」)に取り組まれたのですが、その最後の章が今日でいう医療倫理を扱った章でした。杉田玄白の孫にあたる杉田成蹊が先にこの章を翻訳し、「医戒」と名付けて出版したので、洪庵先生はこの「医戒」から12カ条を抜粋し、「扶氏医戒之略」として門下生に示したのです。今読み直しても、違和感を覚えるところは数か所だけで、このままでも十分通用する内容です。福沢諭吉を始めとする門下生は、洪庵先生が掲げた額を朝に夕に仰ぎ、ここに示された精神を我がものにしようとしたに違いありません。

 しかし、戦後の医学教育から、ドイツ発の扶氏医戒之略は姿を消してしまいました。そもそも「医師たるものは」などというお話は、私も医学生になりたての頃に、医学部長や病院長から伺ったのかもしれませんが、記憶に残っていません。医師になってからも、諸先輩から「これが医師としての矜持だ」と叩き込まれた記憶もありません。最も基本的な理念が諸先輩から明確に伝えられないままに、わが国では医学生は医師になってしまうのです。そのようなものは、人から教えられるものではなく、自分で身につけるべきものだという意見も、よく耳にしました。

 代わって登場したのが、世界医師連合World Medical Associationが公開してきた3つの宣言です。国際連合が発出した人権宣言と同じく、基本的人権を扱った1948年のGeneva宣言、ヒトを扱う医学研究の倫理を定めた1964年のHelsinki宣言、患者さんの権利擁護を定めた1981年のLisbon宣言です。最近は医学部でも、「戴帽式cap ceremony」に倣って「白衣式white coat ceremony」を行うところが増えていますが、ここで紹介されるのは「ヒポクラテスの誓い」とこの3宣言です。

 

 1970年代の米国に始まった患者さんの権利の主張は、インフォームドコンセントの理念となって、医療の現場に大きな影響を与えてきました。こうした医師患者関係の変化に危機感を抱いた欧米の内科系専門医の学会、すなわち米国のAmerican Board of Internal Medicine (ABIM)とAmerican College of Physicians- American Society of Internal Medicine (ACP-ASIM)、および欧州のEuropean Federation of Internal Medicine (EFIM)の3団体は、2002年に合同して「新ミレニアム時代における医のプロフェッショナリズム:医師憲章(Medical Professionalism in the New Millennium: A Physician Charter)」を公表しました。

 現在、世界標準の考え方とみなされているこの「医師憲章」では、3つの基本的原則と10項目のプロとしての責務が掲げられています。原則は、(1)患者の福利優先primacy of patient welfare、(2)患者の自律性patient autonomy、(3)社会正義social justiceの3つです。次いで責務は、(1)プロとしての能力、(2)患者との誠実さ、(3)患者情報の守秘義務、(4)患者との適切な関係の維持、(5)医療ケアの質の向上、(6)医療ケアへのアクセスの向上、(7)有限な医療資源の適正配分、(8)科学的知識、(9)利益相反の管理による信頼の維持、(10)プロとしての責務(後進の育成など)、の10項目に貢献する意志commitmentsが挙げられています。

 また、医学教育の分野では必ず引用されるArnoldとSternによるmedical professionalismの定義では、臨床的能力(医学知識)、コミュニケーション・スキル、倫理的・法的理解という3つの基盤の上に、卓越性、人間性、説明責任、利他主義を4本の柱として医のプロフェッショナリズムが構築されています。

 医師や看護師を対象としたプロフェッショナリズムのお話になってしまいましたが、PT、OT、STの皆さんもプロとしての「倫理綱領」を定めていますし、関連するメディカルスタッフの学会もそれぞれ「倫理綱領」を定めています。プロの定義はさまざまになりますが、「プロとは何か」という問いに対しては、いずれもプロを構成する要素を挙げて、全体像としてまとめるという形式を採っています。取り上げられる要素は概ね共通していますが、必要条件を羅列しているだけともいえます。

 

 欧米のように、医のプロフェッショナリズムの定義づけが進み、プロフェッショナルであることが医師として求められる資質、あるいは能力と理解されるようになれば、これらの資質・能力を身につけたか否かが医学教育のアウトカム評価として用いられるようになるのは当然の流れです。こうした欧米の動きを受けて、わが国でも「医学教育のモデル・コア・カリキュラム」の改訂が続いていますが、医師としての資質・能力の中で何が最も必要なのか、それをどのように教えるのかは明示されておらず、各大学の取り組みに任されているのが現状です。医療職に対する専門教育も、同じ状況ではないでしょうか。

 京都大学は2016年4月から、アンプロフェッショナルな学生を評価するというユニークな取り組みを行っています。ここでは「プロとは」を定義せず、アンプロフェッショナルな態度の実例を挙げ、そのような振る舞いを行った学生を、京都大学医学部学務委員会臨床実習倫理評価小委員会に報告するよう求めています。「アンプロフェッショナルな学生」とは、「診療参加型臨床実習において、学生の行動を臨床現場で観察していて、特に医療安全の面から、このままでは将来、患者の診療に関わらせることが出来ないと考えられる学生」と定義され、「英国圏では、同様の評価を「Fitness to Practice」と表現し、文字通り、「将来、診療に関わらせることが出来るかどうか?」を評価しています」という説明がありますので、「Fitness to Practice」を意識したものであることがわかります。

 こうした定義に当てはまる学生を排除しなければならなくなっているということは、医のプロとなるために備えているべき態度や振る舞いは、将来、医療の分野で対人サービスに従事する医学生ならば、当然身につけていて然るべきである、という前提が崩れてきたことを示しています。偏差値の高いことが医学部に合格する必要条件であれば、臨床の現場には不向きな学生も、医学部に進学してくるのは当然です。

 新型コロナウイルス感染症が拡大しつつあった2020年3月、研修医が相次いで感染したことに、社会から非難が集中したのを覚えておられるでしょう。密閉・密集・密接を避けるために、夜間の外出、会食の自粛が求められている最中に、医療従事者の一員である研修医が懇親会を開き、結果として、感染クラスターが発生した事例が複数ありました。当事者だけでなく、彼らを教育した医学部や医療機関も非難され、謝罪の声明を出すという事態は、社会は医師を始めとする医療従事者に対して、より高い「モラル」を教育するよう求めていることを意味しています。

 

 それでは、本学では学生諸君に何を伝え、どのようなプロを目指してもらうのでしょう。皆さんそれぞれにお考えがありましょうが、私は基本的な理念を共有することから始めたいと思います。今後も変わらず、地域包括ケアの実現を目指すのであれば、基本的な理念は「地域リハビリテーションの実現」であり、「ノーマライゼーションの実現」になります。これにTom Kitwoodが提唱する「その人らしさの尊重」を加えます。これまでにも何度か、「共感する力」が重要ということを話したり、書いたりしてきましたが、「共感する力」も加えたいと思います。

 今後の高等教育は、Diploma Policyを常に念頭に置き、これをCurriculum Policyと紐づけして、卒業の時に身につけているべき能力としてのDPへの達成度を学年毎に評価する方向に進むと想定されます。本学も大学院教育から見直しを始めており、今後は学部教育についても、こうした議論を深めて行きます。本学が目指すプロとは何か、どのように教育すべきなのか、ぜひ皆様のご意見をいただきたいと思います。

 

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